「ファウスト」「若きウェルテルの悩み」「イタリア紀行」「詩と真実」などで知られるドイツの詩人ゲーテの言葉から、自分に役立ちそうなものを抜粋しております。気になった言葉や詳しい背景はご自身でお調べになることをおすすめします。
2016
ヨハン・ペーター・エッカーマンはゲーテの晩年の友人である。ゲーテ関連書でたびたび秘書と記されているように、彼の役割は傍目にはかなり事務的なものだった。その主な仕事内容はゲーテ全集の編集で、エッカーマンは詩人の死後もこの仕事に忙殺されている。が、しかし、彼はゲーテの秘書ではなかった。いくつかの例外を除き、ほとんど金をもらっていなかったのだ。
エッカーマン自身、ゲーテと自分の関係を給金によって結ばれたものではないとしている。師弟であり、友人であり、協力者であったので、秘書と呼ばれることに抵抗を感じていたようだ。彼の墓にはただ「ゲーテの友人」と刻まれている。
さて、そんなエッカーマンが「ゲーテとの対話」を綴り始めたのはまだゲーテ存命の頃だ。ちょっとしたメモ魔だった彼は、詩人の深みある言葉を熱心に書きとめていた。それがこの著の原型になったのである。
1823年10月29日の記録に面白いことが書かれている。今日はゲーテではなくエッカーマンの言葉を取り上げたい。
『詩人が平凡にしか描けなかった人物でも、上演すると、案外うまくいくものである。それは、演ずる俳優が生きた人間であるために、劇中の人物も生かされるようになって、ある種の個性を与えられるからである。それに反して、大詩人が素晴らしく描きだした人物は、それ自体すでにただならぬ鋭い個性を持っているから、演出に当たって必ず失敗をまぬがれない。とても普通では俳優に(最適な)人を得られないし、俳優自身の持つ個性をどこまでも抑制しきれる者はほとんどいないからである。台本にうってつけのはまり役が見つからず、あるいはまた、俳優が自分個人を完全に脱却する才能を持ち合わせない場合には、混合物ができあがってしまって、作中の人物は純粋性を失うに至る。それゆえ、真に偉大な詩人の作品では、本来の意向通りに演じる俳優は常にわずかしかいないのである』――ゲーテとの対話(上)より。
ゲーテとの談話を記録として残した人物はエッカーマンだけではない。しかしエッカーマンの「対話」だけが並々ならぬ評価を得ているのは、エッカーマンが文章における己の個性を可能な限り排除して、真に偉大な詩人の輝きを減ずるまいと努めたからだと言われている。上記の彼の演劇観にはその片鱗が表れているのではなかろうか。
エッカーマンはひたすらにゲーテの影に徹した。「ゲーテのおうむ」「ゲーテの言ったことを”そのまま”書き起こしているだけ」と揶揄された彼は、寧ろ「してやったり」とほくそ笑んだそうである。彼の狙った効果はまさにそれだったからだ。
誰しも自己顕示欲を持つものだ。だがエッカーマンは己の著作の中ですら出しゃばらなかった。あまたの出版社から世に送り出された、とあるゲーテ全集(※エッカーマンが編集に関わったものではない)では「エッカーマンの対話ならゲーテの作品に数えてもいいだろう」とその締めくくりを飾ったほどである。
窮乏のうちに死んだエッカーマンは、彼の人生を吸い尽くしたゲーテを恨んでも良さそうなのに、そうしなかった。強烈な光の投じる巨大な影を演じることができた彼も、目立ちにくいが非凡な才を持っていたのだろう。「ゲーテとの対話」は詩人を崇める者たちの福音書となり、ゲーテの死後もゲーテの著作を布教するという大任を果たしている。
エッカーマン自身、ゲーテと自分の関係を給金によって結ばれたものではないとしている。師弟であり、友人であり、協力者であったので、秘書と呼ばれることに抵抗を感じていたようだ。彼の墓にはただ「ゲーテの友人」と刻まれている。
さて、そんなエッカーマンが「ゲーテとの対話」を綴り始めたのはまだゲーテ存命の頃だ。ちょっとしたメモ魔だった彼は、詩人の深みある言葉を熱心に書きとめていた。それがこの著の原型になったのである。
1823年10月29日の記録に面白いことが書かれている。今日はゲーテではなくエッカーマンの言葉を取り上げたい。
『詩人が平凡にしか描けなかった人物でも、上演すると、案外うまくいくものである。それは、演ずる俳優が生きた人間であるために、劇中の人物も生かされるようになって、ある種の個性を与えられるからである。それに反して、大詩人が素晴らしく描きだした人物は、それ自体すでにただならぬ鋭い個性を持っているから、演出に当たって必ず失敗をまぬがれない。とても普通では俳優に(最適な)人を得られないし、俳優自身の持つ個性をどこまでも抑制しきれる者はほとんどいないからである。台本にうってつけのはまり役が見つからず、あるいはまた、俳優が自分個人を完全に脱却する才能を持ち合わせない場合には、混合物ができあがってしまって、作中の人物は純粋性を失うに至る。それゆえ、真に偉大な詩人の作品では、本来の意向通りに演じる俳優は常にわずかしかいないのである』――ゲーテとの対話(上)より。
ゲーテとの談話を記録として残した人物はエッカーマンだけではない。しかしエッカーマンの「対話」だけが並々ならぬ評価を得ているのは、エッカーマンが文章における己の個性を可能な限り排除して、真に偉大な詩人の輝きを減ずるまいと努めたからだと言われている。上記の彼の演劇観にはその片鱗が表れているのではなかろうか。
エッカーマンはひたすらにゲーテの影に徹した。「ゲーテのおうむ」「ゲーテの言ったことを”そのまま”書き起こしているだけ」と揶揄された彼は、寧ろ「してやったり」とほくそ笑んだそうである。彼の狙った効果はまさにそれだったからだ。
誰しも自己顕示欲を持つものだ。だがエッカーマンは己の著作の中ですら出しゃばらなかった。あまたの出版社から世に送り出された、とあるゲーテ全集(※エッカーマンが編集に関わったものではない)では「エッカーマンの対話ならゲーテの作品に数えてもいいだろう」とその締めくくりを飾ったほどである。
窮乏のうちに死んだエッカーマンは、彼の人生を吸い尽くしたゲーテを恨んでも良さそうなのに、そうしなかった。強烈な光の投じる巨大な影を演じることができた彼も、目立ちにくいが非凡な才を持っていたのだろう。「ゲーテとの対話」は詩人を崇める者たちの福音書となり、ゲーテの死後もゲーテの著作を布教するという大任を果たしている。
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